食を中心にした生活史と現代のトレンド、ジェンダーなどをテーマに執筆。
『東洋経済オンライン』、『現代ビジネス』、『FRaU』、『クックパッドニュース』などで連載。主な著書は以下の通り。
『ラクしておいしい令和のごはん革命』(主婦の友社)
『日本外食全史』(亜紀書房)
『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。』(幻冬舎)
『平成・令和食ブーム総ざらい』(集英社インターナショナル)
『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか』(NHK出版新書)
『小林カツ代と栗原はるみ』・『料理は女の義務ですか』(新潮新書)
『昭和の洋食 平成のカフェ飯』(ちくまプリマー新書)
ユーチューブとnote、『たのしいキッチンmag』(クックパッド)で、「理想のキッチン探し」の動画・記事を配信中。
- 必修科目
- ケア原論
2022
6/27
ケア原論3「家事から見えるケアの世界」
講師:
阿古真理(作家・生活史研究家)
ケア原論の第3回には作家・生活史研究家の阿古真里さんにお越しいただき、「家事から見えるケアの世界」という題でお話しをいただきました。
初めにご紹介くださったのは内閣府令和4年版男女共同参画白書の「特集編 人生100年時代における結婚と家族 〜家族の姿の変化と課題にどう向き合うか~ 」。これによる結婚・家族・就業状況などの調査結果を受け、阿古さんは「日本は昭和の亡霊に囚われすぎており、そのことがケアの問題にも関わっている」といいます。
阿古さんによると、ケアの難しいところは「”働いている”と認識されにくいところ」であるといいます。この性質があるために、家庭内で家事・育児を担う人が配偶者にその大変さをわかってもらえない、仕事と家事・育児の両立が難しい、企業内での「育休切り」、ケアをする人へのケアが足りないことによる虐待の発生、子どもへのケアが足りないことが起因として考えられるいじめ問題・引きこもり問題などケアに関わる社会的問題が今日様々に叫ばれています。
次に、ケアの歴史的な位置付けと資本主義社会との関係性についてお話しいただきました。
年金や健康保険といった日本における社会基盤には、前提として「自立した社会人」像があることに阿古さんは着目されました。これは近代の経済学の世界においては家事が労働として組み込まれていないことも意味しています。ケアを行う世界がそもそも前提としてあり、その上に経済学者たちが論じている世界があるという構造があると指摘をされました。
また、この視点においてケアやケアの担い手の存在が無視されているのではないかとも指摘をされました。かつては農業などの住み込み型労働であったのが、近代資本主義社会では職場は仕事だけ、家はプライベートな家庭と分けられる形になります。このようにして公と私を分けて私生活を忘れるように社会は変化してきた歴史がありますが、この考え方においては家はあくまでも「父と子供」がくつろぐ場所なのであり、「母」は家という職場で働いているという目線が見落とされていることとなっています。
このことが明るみに出たのは新自由主義が提唱される時代。日本においても格差の広がりがより見えるようになり、働かざるを得ない女性も増え、「仕事と家庭両方なんてできない」という叫びもあがるようになったといいます。
今の社会において私たちができることで一番簡単な方法は、実は「ケアを発見すること」であるといいます。
少しずつ仕事の負担を減らし、ケアの時間を増やす。ケアの時間が増えることで心のゆとりが増える、お互いに寛容になる、ケアがしあえるようになる。このような連鎖は自他の幸せに繋がるだけでなく、社会課題の解決への関心を高める糸口にもなるのではないかと阿古さんは主張されました。ケアの問題は個人の生活に落とし込むと非常に単純なことで、ひとりひとりが実行すれば社会は変わるといいます。
初めにご紹介くださったのは内閣府令和4年版男女共同参画白書の「特集編 人生100年時代における結婚と家族 〜家族の姿の変化と課題にどう向き合うか~ 」。これによる結婚・家族・就業状況などの調査結果を受け、阿古さんは「日本は昭和の亡霊に囚われすぎており、そのことがケアの問題にも関わっている」といいます。
阿古さんによると、ケアの難しいところは「”働いている”と認識されにくいところ」であるといいます。この性質があるために、家庭内で家事・育児を担う人が配偶者にその大変さをわかってもらえない、仕事と家事・育児の両立が難しい、企業内での「育休切り」、ケアをする人へのケアが足りないことによる虐待の発生、子どもへのケアが足りないことが起因として考えられるいじめ問題・引きこもり問題などケアに関わる社会的問題が今日様々に叫ばれています。
次に、ケアの歴史的な位置付けと資本主義社会との関係性についてお話しいただきました。
年金や健康保険といった日本における社会基盤には、前提として「自立した社会人」像があることに阿古さんは着目されました。これは近代の経済学の世界においては家事が労働として組み込まれていないことも意味しています。ケアを行う世界がそもそも前提としてあり、その上に経済学者たちが論じている世界があるという構造があると指摘をされました。
また、この視点においてケアやケアの担い手の存在が無視されているのではないかとも指摘をされました。かつては農業などの住み込み型労働であったのが、近代資本主義社会では職場は仕事だけ、家はプライベートな家庭と分けられる形になります。このようにして公と私を分けて私生活を忘れるように社会は変化してきた歴史がありますが、この考え方においては家はあくまでも「父と子供」がくつろぐ場所なのであり、「母」は家という職場で働いているという目線が見落とされていることとなっています。
このことが明るみに出たのは新自由主義が提唱される時代。日本においても格差の広がりがより見えるようになり、働かざるを得ない女性も増え、「仕事と家庭両方なんてできない」という叫びもあがるようになったといいます。
今の社会において私たちができることで一番簡単な方法は、実は「ケアを発見すること」であるといいます。
少しずつ仕事の負担を減らし、ケアの時間を増やす。ケアの時間が増えることで心のゆとりが増える、お互いに寛容になる、ケアがしあえるようになる。このような連鎖は自他の幸せに繋がるだけでなく、社会課題の解決への関心を高める糸口にもなるのではないかと阿古さんは主張されました。ケアの問題は個人の生活に落とし込むと非常に単純なことで、ひとりひとりが実行すれば社会は変わるといいます。
講師プロフィール
作家・生活史研究家