20代後半から川崎市のNPOで障害者介助の仕事をする。現在「すばるクリティーク賞」選考委員。著書に『戦争と虚構』『ジョジョ論』『宇多田ヒカル論』『東日本大震災後文学論(共著)』『相模原障害者殺傷事件(共著)』『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』『長渕剛論』『宮崎駿論』『無能力批評』『フリーターにとって「自由」とは何か』等。
- 必修科目
- ダイバーシティ実践論
2018
11/19
アーティストの活動7「介助と芸術の間で」
講師:
杉田俊介(批評家)
文芸批評やフリーターの労働問題に関する本を執筆するかたわら、障害者介助の仕事をしていた杉田さん。介助の現場で、アート活動をしている障害者の方達との出会いがありました。その生活の中で次第に杉田さんの中で、もやもやすることや、これはアートか否か、という戸惑いが出てくるようになったそうです。
講義の冒頭で、「花子」というドキュメンタリー映画を鑑賞しました。
花子さんは、夕食の残り物を素材にした「たべものアート」の作家で、お母さんは毎日「作品」を写真に撮り続けています。ある日の食事では、花子さんが手で魚をちぎっては少し食べ、残りはお盆とお皿の上に配置するように並べ、自分の部屋へ帰っていきます。その後、お母さんがその「作品」を写真に撮っていました。果たしてこれは「アート」なのか。自閉症の「症状」なのか。
ものを食べ、並べていく中で発揮される花子さんのこだわり。痕迹のように残されたものがアートなのか。どこからどこまでがアートで、どこからどこまでが症状なのか。こうした杉田さんのもやもやするものが多数紹介されました。
大量の絵を描き、すぐに捨てる自閉症の少年。各自が好きに集まり、好きに描いて帰っていく養護施設の人たち。
彼にとって絵を描くこととは何なのか。意味の有無を超えるようなものがあるのではないか。何気ない行為のなかに、力が宿っているのかもしれない。アートを感じるような行為を受け止めるためには美的、社会的な感覚を鍛えていかなければいけない、と感じるようになったそうです。
アートか、それ以外の「なにか」か。誰にもはっきりと定義づけられない問い。人によって異なる答えや捉え方。「これは一体なんだろう?」と問い続けることが重要なのかと感じました。
講義の冒頭で、「花子」というドキュメンタリー映画を鑑賞しました。
花子さんは、夕食の残り物を素材にした「たべものアート」の作家で、お母さんは毎日「作品」を写真に撮り続けています。ある日の食事では、花子さんが手で魚をちぎっては少し食べ、残りはお盆とお皿の上に配置するように並べ、自分の部屋へ帰っていきます。その後、お母さんがその「作品」を写真に撮っていました。果たしてこれは「アート」なのか。自閉症の「症状」なのか。
ものを食べ、並べていく中で発揮される花子さんのこだわり。痕迹のように残されたものがアートなのか。どこからどこまでがアートで、どこからどこまでが症状なのか。こうした杉田さんのもやもやするものが多数紹介されました。
大量の絵を描き、すぐに捨てる自閉症の少年。各自が好きに集まり、好きに描いて帰っていく養護施設の人たち。
彼にとって絵を描くこととは何なのか。意味の有無を超えるようなものがあるのではないか。何気ない行為のなかに、力が宿っているのかもしれない。アートを感じるような行為を受け止めるためには美的、社会的な感覚を鍛えていかなければいけない、と感じるようになったそうです。
アートか、それ以外の「なにか」か。誰にもはっきりと定義づけられない問い。人によって異なる答えや捉え方。「これは一体なんだろう?」と問い続けることが重要なのかと感じました。
講師プロフィール
批評家